Cauchy 分布の期待値が定義できない理由
Cauchy 分布は釣鐘型の見た目を持ちながら、裾が重すぎて期待値を定める積分が絶対収束せず、期待値が定義できません。stats-06 で学んだ期待値の定義が破綻する代表例として、発散の構造と物理応用(ローレンツ分布)を整理します。
Cauchy 分布は釣鐘型の見た目を持ちながら、裾が重すぎて期待値を定める積分が絶対収束せず、期待値が定義できません。stats-06 で学んだ期待値の定義が破綻する代表例として、発散の構造と物理応用(ローレンツ分布)を整理します。
stats-06 で「Cauchy 分布の期待値は未定義」と一行書きました。「未定義」と「無限大」は別の状態です。Cauchy 分布では正の側と負の側の期待寄与がともに無限大になり、通常の期待値を定義できません。積分の切断方法で極限が変わることは、この未定義性を目で確かめる補助例です。
親記事: 期待値
stats-06 の期待値確率変数が取りうる各値に、その確率を重みとして掛けて足し合わせた値。長期的に試行を繰り返したときの観測平均の収束先を表す。離散型では値と確率の積の総和、連続型では密度関数による積分で定義される。の節では、期待値が定義できない例として Cauchy 分布を一文だけ挙げました。同じ節に Saint Petersburg のパラドックスも登場しますが、両者は別の状態にあります。Saint Petersburg の期待値は正の項だけが積み上がって になります。Cauchy 分布では正の側と負の側の寄与がどちらも有限に収まらないため、通常の期待値は定義できません。
その条件は stats-08(大数の法則・中心極限定理独立同分布で正の有限分散をもつ標本では、標本数が増えると標本平均の分布が正規分布に近づくという定理です。元のデータ自体が正規分布になるという意味ではありません。)の前提にも直結します。CLT の成立には「期待値が有限であること」が必要で、Cauchy 分布はその前提から外れます。stats-08 を読む前に「期待値有限」という仮定が何を意味するかを整理しておくことが、本補足の目的です。
Cauchy 分布の確率密度関数は次の式で定義されます。
は確率密度関数(その点での確率の「濃さ」を表す関数)、 は円周率 3.14159...、 は実数値です。この密度関数が確率の総和という条件を満たすことは、(逆正接関数)の不定積分から確認できます。
密度関数としての条件(確率の総和が 1)は成立しています。問題は期待値の計算で起きます。
上半の積分を計算します。 は自然対数( を底とする対数)を指します。
のとき なので、上半の積分は に発散します。下半も同様で、
上半が 、下半が に発散します。この発散は急速なものではなく、対数的にじわじわ進みます。以下の数値で確認できます。
| 上端 | 上半積分 |
|---|---|
| 10 | 0.735 |
| 100 | 1.466 |
| 1,000 | 2.199 |
| 10,000 | 2.932 |
が 10 倍になるたびに積分値は約 0.733 ずつ増えます(対数スケールの均等増分)。これが「じわじわ・延々と」増え続け、止まりません。
横軸は積分の上端 、縦軸はそこまでの上半積分の値です。青い曲線が を伸ばしたときの積分値の推移で、青い 2 点が (0.735)と (1.466)の具体値です。 を 10 倍にしても値は 2 倍程度しか増えず、対数的にしか伸びないことが分かります。
この曲線は とともに増え続けますが、その勾配は が大きくなるにつれ緩やかになります。水平になることはなく、確実に増え続けます。
上半が 、下半が になると、期待値の計算で「」という形が現れます。この形は計算結果が一意に決まらない不定形です。どれだけ「一意に決まらない」かは、積分の上端 と下端 を独立2 つの事象 A, B について、B が起きたという情報を得ても A の確率が変わらない関係。数学的には P(A ∩ B) = P(A) P(B) または同値に P(A|B) = P(A) で定義する。排反性とは正反対の概念。にどう動かすかで確かめられます。
とおきます。 をどんな組み合わせで近づかせるかで、 の極限値が変わります。
同じ積分なのに、 と の「動かし方の比率」が変わると極限値が変わります。これが「答えが決まらない」ということの正確な意味です。
絶対積分も発散します。
絶対積分( を掛けてから積分した値)が有限なら絶対収束します。しかし、絶対収束しないことと条件付き収束することは同じではありません。Cauchy 分布では正側と負側の片側積分がそれぞれ発散するため、通常の広義積分も条件付き収束もしません。存在するのは、対称に切断したときのコーシー主値 だけです。
上半が 、下半が 。両方が無限大なので引き算が不定形になります。積分の上端・下端の動かし方次第で極限値が変わります。期待値は「値として確定しません」。
のように、正の和だけが無限大に発散します。足す順番を変えても結果は変わりません。期待値は「 として確定しています」。
「未定義」と「無限大に発散」は別の失敗です。Saint Petersburg の期待値 は確定した答えを持ちます。Cauchy の期待値は答えが確定しません。
Cauchy 分布の密度関数 のピークは にあります。密度関数が を軸に左右対称であることから、中央値データを小さい順に並べたとき真ん中に位置する値。順位だけを見るため、外れ値が何倍に動いても順位が変わらない限り中央値は動かない。も です。最頻値データの中で最も多く出現する値。連続データには適用しにくく、カテゴリ・離散値で力を発揮する代表値。もピーク位置の 。両方とも普通の実数値として存在します。
「平均がないのに中央値はある」という事実は直感に反します。中央値は「順位の中央」を見ており、裾の面積の振る舞いとは独立です。中央値は密度関数を左右に等分する点で、これは の対称性から と確定します。一方、平均は「 で重みをつけた面積」に依存し、その重み付き面積が発散するから定義できません。
Cauchy 分布から独立に 個の標本を取ったとき、標本平均 の分布は、 が増えても Cauchy 分布のまま変わりません。特性関数 (確率変数試行を行う前の段階では値が定まっておらず、試行を行うと確率分布に従って値が一つ定まる量。慣習として変数本体は大文字、試行後に観測された具体的な値(実現値)は小文字で書き分ける。 の分布形を周波数 で記述する関数)を使って計算すると、 の特性関数は となります。これは Cauchy 分布の特性関数そのものです。
が増えても の分布は Cauchy 分布のまま変わりません。正規分布から取った標本平均が の増加とともに真の平均付近に集中するのと正反対の振る舞いです。これが大数の法則の成立しない実例です。
Cauchy 分布と正規分布の密度関数を重ねて見ると、その違いが明確になります。
中心付近()では Cauchy と正規はほぼ同じ形をしています。違いは裾に出ます。 付近では、正規密度が事実上ゼロに達するのに対し、Cauchy 密度は と、まだ有意な高さを保っています。Cauchy の裾の減衰は のオーダーで、正規の のオーダーとは桁違いに遅いです。この裾の重さが の積分を発散させる物理的な原因です。
物理学では同じ密度関数をローレンツ分布と呼びます。原子・分子の電子遷移が放つ光のスペクトル線(共鳴吸収ピーク)の形がこの関数で記述され、半値半幅(HWHM) がスケールパラメータとして現れます。NMR の吸収ピーク、共鳴回路の周波数応答も同じ関数形をとります。共鳴線の「中心周波数」は中央値・最頻値で定義され、物理学者が「平均周波数」を使う場面は存在しません。期待値が定義できないことは、物理計測の標準的な現場で「平均」ではなく「中心」が使われる理由として自然に現れています。