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PAPER REVIEWMathematics . Computer Science

一つの演算子で、すべての数学を作る

NANDゲートがすべてのブール論理を生成できるように、連続数学にも「万能演算子」は存在するのか。2026年、一人の数学者がコンピュータサーチによってその答えを見つけた。

AlphaInsiders Academy, 2026-04-25
Mathematics . Computer Science
読了 12
2026-06-20 更新
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NANDゲートという概念があります。デジタル回路の世界で登場するもので、「あらゆるブール論理関数はNANDゲートだけで表現できる」という性質を持ちます。ANDもORもNOTも、すべてNANDの組み合わせに還元できます。NANDのこの性質を Sheffer ストローク と呼びます。では連続数学に同じことができるでしょうか。sin、cos、exp、log、べき乗、四則演算を、たった一つの演算子だけで生成できるかという論点です。2026年3月、Andrzej Odrzywołekはそれが可能だと示しました。

この記事の構成

emlの定義 → 定数1の役割 → 四則演算をブートストラップで構築 → 複素数が不可避な理由 → 「生成する」の形式的な意味 → 既知との差 → シンボリック回帰への接続 → 残された問題。この記事で密度を傾けているのはブートストラップの連鎖と複素数の不可避性の二点で、生成手順の各論はその前段として示す。

演算子の定義

その演算子はこうです。

定義
eml(x, y) = exp(x) − ln(y)
exp と ln を組み合わせた二項演算子

これに定数1を加えた二つだけで、標準的な関数電卓のすべての関数と定数(sin、cos、tan、双曲線関数、π、e、i、四則演算、べき乗、根)を有限の入れ子合成で表現できます。論文はこれを「EML Sheffer演算子」と呼びます。

発見の経緯は理論的演繹ではありません。候補演算子を網羅的にコンピュータサーチし、発見されたものです。著者自身「そのような演算子が存在するとは予期していなかった」と述べています。ブール代数のSheffer演算子はPeirce(パース)が1880年に、Shefferが1913年に紙と鉛筆で見つけた。emlの類比がコンピュータサーチでしか発見されなかったという事実は、連続数学の候補空間がブール代数よりも圧倒的に広いことを直接示しています。

なぜ定数1が必要か

emlの第二引数に1を代入します。ln(1) = 0 なので:

導出

eml(x, 1) = exp(x) − ln(1) = exp(x) − 0 = exp(x)

対数項が消えます。これだけで指数関数が取り出せました。同様に:

結果

eml(1, 1) = exp(1) − ln(1) = e

定数eも出てきます。1という定数が対数項を消すスイッチとして機能していて、これがないと何も始まりません。

NANDとの本質的な違い

NANDは任意の入力から0と1を自前生成できる。emlはできない。「定数1を外部から与えなければ何も始まらない」という一点が、emlがNANDの完全な類比になりきれない理由でもある。論文はこれを未解決問題の一つとして挙げている。

ブートストラップの連鎖

論文の証明は構成的です。S₀ = {1, eml} から始め、残りの各プリミティブに対してEML式を探索し、見つかったものを逐次利用可能集合に追加していきます。expとeが手に入ったあと、自然対数はこうなります:

導出

深さ 3 の入れ子
ln(z) = eml(1, eml(eml(1, z), 1))

計算ln(z) の展開を手で追う

内側から展開します。eml(1, z) = e − ln(z)。それを第一引数にしてeml(·, 1)を適用するとexp(e − ln(z)) = eᵉ/z。最後にeml(1, eᵉ/z) = e − ln(eᵉ/z) = e − (e − ln(z)) = ln(z)。途中でeᵉ/zという巨大な値が現れますが、最終的に完全にキャンセルされます。この打ち消しがブートストラップ全体の基本パターンになっています。

expとlnが揃えば、算術演算は恒等式を経由して出てきます。

x − y = eml(ln(x), exp(y))exp(ln x) − ln(exp y) = x − y
−x = 0 − x, 0 = ln(1)符号反転
x + y = x − (−y)足し算
x × y = exp(ln x + ln y)掛け算
x / y = exp(ln x − ln y)割り算

各ステップで合成が深くなるため、木のノード数は急増します。

関数・定数説明ノード数
exp(x)指数関数2
ln(x)自然対数7
x − y引き算〜8
x × y掛け算〜17
x + y足し算〜19
π円周率193

円周率πを表現するだけで、eml演算を193回ネストしなければならない。

この数字には二つの側面があります。一方で、論文の主張は「有限の入れ子で必ず到達できる」という存在保証であり、計算コストは二次的な関心事です。もう一方で、eᵉ/zという巨大な中間値が現れる構造は、浮動小数点で実装した瞬間に深刻な問題になります。iczelia.netのKamila Szewczykが数値実装の検証で示したように、eml演算の catastrophic cancellation(中間値での桁落ち)は最悪ケースで851,000 ULP の誤差を生みます。論文が数学的存在保証として閉じている箇所で、実装の現実との断層が開きます。

この断層は論文の主張を無効にしません。ただし「emlが計算システムの基盤として機能する」という解釈には、ハードウェアレベルでのexplicit最適化が前提条件として入ってきます。expとlnをFPUで直接サポートする環境なら、超越関数の計算でCORDICと競合できる可能性はあります。そうでなければ193ノードのπは実用外です。

複素数は不可避

実数のままでは ln(−1) は定義できません。対数は正の数にしか定義されないからです。しかし対数を複素数に拡張すると、主値分岐を使って ln(−1) = iπ と書けます。これで i と π が同時に手に入ります。

iが手に入れば、Eulerの公式 eⁱˣ = cos(x) + i·sin(x) が三角関数全体を解放します。

導出

sin(x) = (eⁱˣ − e⁻ⁱˣ) / (2i)
cos(x) = (eⁱˣ + e⁻ⁱˣ) / 2

三角関数を生成するためには、複素数平面に踏み込むことが必要条件になります。実数の範囲にとどまったまま π や三角関数を生成する方法は、現時点では示されていません。

重要な指摘

複素数はここでの回避策ではなく、この構造に本質的に組み込まれています。emlが「すべての関数電卓の関数を生成できる」という命題の範囲と、複素数が必要になる理由は切り離せない。

ln は正の実数にしか定義されません。連続合成で任意の値域に届こうとすると、複素数の介在は要請されます。これは eml(x, y) = exp(x) − ln(y) という構造が実数上の演算として閉じていないことの直接の帰結です。

双曲線関数(sinh、coshなど)はiを必要とせず、expとlnから直接導出できます。根はx^(1/n) = exp(ln(x)/n)という形で表現されます。複素数を経由するのはあくまで三角関数とπを手に入れる経路だけです。

「生成する」の形式的な意味

この主張は「関数空間全体を生成できる」という意味ではない。対象は標準的な関数電卓が持つ有限個のプリミティブ。チューリング完全性とは別の話。

論文が「生成できる」と言うとき、それは以下の文脈自由文法で書けるということを意味します:

文法

S → 1 | x | eml(S, S)

すべての式が「内部ノードがeml演算、葉が1か入力変数」の完全二分木になります。NANDが有限のブール結合子集合に対して普遍的であるのと同じ意味での完全性です。

どこが新しいのか

初等関数をexpとlnと四則演算に還元できることはEulerの時代から知られています。exp・ln・引き算の三つへの圧縮はEuler以降の標準的な還元で、教科書には載らないが専門家には自明だった。しかし単一の二項演算子一つまで押し込めるとは、著者自身も予期していませんでした。

既知は「exp・ln・四則演算の組み合わせで初等関数全体を表現できる」。この論文の新規性は「さらに圧縮して eml + 1 の二つだけへ」です。

証明の検証はMathematicaの3行スクリプトで1時間以内に完了します。Rustの再実装では数秒です。変数に代数的独立な超越定数(Euler-Mascheroni定数γなど)を代入して数値照合するという手法を使っており、Schanuel予想 のもとでは偶然の一致が生じる確率はゼロなので、数値的な検証が実質的な証明として機能します。

ただし、この検証方式には射程の限界があります。stylewarning.comのRobert Smithは位相的Galois理論(Khovanskii)を根拠に「5次方程式の根はemlで表現できない」と論じています。Schanuelを仮定する数値照合は、論文が扱う有限個のプリミティブ関数の存在を確認できますが、代数的数や代数的関数全体をカバーする foundational な意味での完全性には届きません。Smithの批判は論文の主張を否定するものではなく、その射程を限定するものですが、「EML Sheffer演算子が連続数学の万能生成装置だ」という解釈には注意が必要です。

シンボリック回帰への接続

シンボリック回帰(数値データから閉形式の数式を復元すること)がこの論文の終着点です。

EML式はすべて同型の完全二分木になるため、均一で微分可能なアーキテクチャとして扱えます。各ノードへの入力を線形結合 α + βx + γf(fは前のノードの出力)としてパラメータ化し、Adamで学習し、収束後に重みを整数値にスナップすれば、数式を復元できます。Eureqa(Schmidt–Lipson, 2009)から続くシンボリック回帰の系譜との関係はここでは追いません。emlとシンボリック回帰の接続構造だけを見ます。

報告された復元率

深さ2のEML木で100%、深さ3〜4で約25%の数式復元率。深さ6でも正しい吸引域が存在し、摂動された解は常に収束することが確認されています。

標準的なニューラルネットワークの活性化関数はそれ自体が初等関数なので、あらゆる通常のニューラルネットワークはEML木の特殊ケースとも言えます。ニューラルネットワークが何をしているかを記号的に解釈する入口として機能し得ます。

残された問題

最大の未解決問題は定数1の必要性です。論文は三項候補 T(x, y, z) = eˣ/ln(x) · ln(z)/eʸ を提案しています。これはT(x, x, x) = 1を満たすため、定数なしで1を自前生成できる可能性があります。ただし三項候補の構成的証明はまだなく、提案段階にとどまります。実用的なコスト問題と形式的な必然性の証明については、この記事では触れません。

さらに探究するなら

論文本体は arXiv:2603.21852。三項候補 T(x, y, z) の議論と Mathematica 検証スクリプトはそこに収録されている。stylewarning.com の Robert Smith による批判的検討(Khovanskii Galois 理論の観点)は https://www.stylewarning.com/posts/not-all-elementary/ を参照。